あなたのために











正守が風呂上がりに居間で饅頭を食べていると勢いよく襖が開いた。
見上げた正守の視線の先には、仁王立ちになっている姉、良守が珍しく静かに正守に対して怒りを向け居ているようだ。

「家を出るって本当か」

母と同じように長い髪が美しい、と正守は責められていることから目を背けるようにぼんやりと見つめた。
正守は姉を愛していた。
隣の幼馴染みも年上の女の子で、二人が並ぶとそれは別世界のような美しさだった。幼馴染みは凛として女らしく育っていくのに反して、姉は喜怒哀楽の変化が激しく、表情が豊かでまるで太陽のような女性だった。いつのころからか放浪し、家を空けていることが当然になっていた母の変わりに暖かく正守を包み、育ててくれたのは姉だった。愛する姉に、そんな顔をさせるのは正守も本意ではない。
けれど、愛するからこそ出て行かなければならない。

「出るよ」
「なんでだ!裏会に行くなんて!」

姉は悲鳴を上げるように叫んだ。
裏会、そこは家督を継げなかったもの、つまはじきにされたもの、行く場所のないものの居場所。
墨村家は代々異能者の家系だから、わざわざ裏会になど行かなくても能力を使って仕事をすることもできる。
大事な弟をはみ出しものが集まる闇の場所に追いやることなど良守は望んでいなかった。
良守は長女であり、墨村家の正統継承者であることが産まれた時から決まっていた。
それは右手に現れた方印が定めたものであり、良守が望む望まないに拘わらずその決定は覆せないものであった。
けれども良守はそれを断固として受け入れてようとはしない。
女である自分よりも正守が、弟が家を継ぐに相応しいと言葉には出さずに思っていた。
言葉に出せなかったのは、弟に方印がなかったからだ。

「それも、急に明日だなんて」
「急じゃない。姉さんに黙っていただけだよ。みんな知っているよ」

怒られたりケンカしたときに正守が困った顔を向けるといつも姉はそれ以上に困った顔をし、正守をしかり続けることはなかった。
けれど今回はショックを受けたような表情をして、そんな表情をさせてしまった自分に正守は歯がゆくなった。
もし、自分に方印さえあれば姉にこんな顔をさせることはなかったのに。
姉だから、正統だから。
自分では認めようとはしないけれど、良守はいつも正統らしく全てを背負い込んでいる。

「どうせ俺はいつか出て行く身だ。それが早いか遅いかなだけ。なら早いほうがいい」
「けどっ」
「烏森は狭い。正統がいる以上、俺は必要ないだろう?」
「そんなことねぇ!」

正守は本心を隠す為、敢えて良守が傷つく言葉を選んだ。こう言えば良守は否定しきれない。
それは右手に方印があるが為。
正守の言葉に良守は崩れ落ち、涙を流しながら正守を見上げた。
とっくに抜かされた身長、自分よりも広い背中、大きな手。
全て守るのは姉である己だと思っていたのに、と。

「おれはっ…烏森なんていらねぇっ…」
「駄目だよ。姉さんは正統なんだから」
「いらねぇ!烏森なんて守りたいなんて思わない!俺が守りたかったのは…っお前なのに」

ついにしゃくり上げ泣き出した良守を耐えきれず正守が抱きしめた。
自分を包み込む肩幅に、自分よりしっかりとした体つきの弟に、良守はやはり自分が持って生まれた方印は間違いだと確信する。
せめて自分が男なら、そんなことは思わなかったのにと正守の肩口に額を預けた。

「俺は、おれは…ずっと誰にも言わなかったけど…」
「ん?」
「烏森を封印するつもりなんだ…」
「な、ねえさ…」

正統である良守の発言は、己の存在理由を抹消するものだった。
方印を持って生まれてくると言うことは、同時に烏森を守る為に産まれてきたと言うことだ。
その烏森を封印したとして墨村家の結界師としての能力ななくならないだろうが、烏森を守るという勤めが無くなるのだから産まれてきた意味すらなくなってしまう。
それなのに良守はそれを口にした。

「なにを言ってるんだ」
「烏森が無くなればお前が出て行く必要はない」
「姉さん、」
「お前に墨村家を継がす為に俺は、ずっと…ずっと戦ってきたのに」

優しい性根の良守は幼い頃、戦うことを嫌がっていたと正守は聞いている。
それが自ら進んで鍛錬をし、進んで烏森に行くようになったのは母が放浪し始めてからだという。
父はそれを、姉としての自覚ではないかと言っていた。
だけれど、それは違ったのだ。

「烏森さえなくなれば…お前が結界師になろうとそうじゃなかろうと、お前の居場所はここになるはずだったのに」

お前が居なくなったら意味がないじゃないか、と良守はすすり泣いた。
此程までに、姉は自分を愛してくれたのか、と正守は感動を覚えると同時に、やはり離れなければと思う。
姉が正守に向ける愛情と、正守が良守に向ける愛情は種類が異なる。
正守は家を継ぐ継がない、ということはどうでもよかった。
正守は姉を一人の女性として愛していた。隣の幼馴染みではなく、実の姉を愛してしまった。 常に側にいるからこそ、良守が家を継ぐ為に正守の知らない男性と結婚し、子をもうけ幸せに暮らす様子を見たくなかったのだ。
今はまだ修行や趣味の菓子作りに没頭し彼氏の気配はなかったけれど、その姿を確認してしまえば嫉妬の余り相手を殺すかも知れないと思う程、正守は年々増していく姉への想いを押さえることができないで居た。
だから、離れようと思った。

「俺は出て行く」
「正守…」
「俺は出て行かないといけないんだ。俺にこの家は継げない。だって俺は良守が好きなんだ」
「正守?」

「姉さん」ではなく名前で呼ばれたことに良守は驚いて顔を上げようとしたけれど、正守がきつく抱きしめてきたのでかなわない。
姉ちゃんが好き、と昔はよく言われていた。
けれど、それは今正守から口に出た「好き」と違うような気がして、良守の動悸が速くなる。

「正守?」
「俺は、姉として、弟として良守が好きなんじゃない。…この手で抱きしめて他の誰にも見られないように隠して。烏森から引き離して遠くに連れて行きたい、二人きりで誰もいない場所で暮らしたい。そういう好き」

伝えてしまえば終わりだと思っていた。
今、終わりにしなければと正守は思った。
これ以上、正守は弟としての愛情を受けることは耐えられなかったのだ。

正守はそっと良守を腕の中から開放し、表情を見ないように後ろを向いた。

「明日、早朝に出て行くから。見送りはいらない」

おやすみ、姉さんと言い、正守は居間から出て行き襖を閉めた。
その音を聞きながら良守は自分の胸の内に起こった熱いものが何なのかを考えていた。









三年後、正守は一度も帰省しなかった自宅へ戻ることになった。
烏森を狙う妖の集団が居るという情報が入った為である。
裏会という集団は思ったよりも危ないものだった。すくなくとも墨村家や雪村家にとっては。
けれど、裏会に所属したから知った事実も多かった。
妖の力を増すという二つとない土地の力を狙うのは妖だけではなかったのだ。
裏会という秩序を守ろうという組織は既に内部が腐り果て、どんな手を使ってでも力を手にしたいと思うものが実権を握っている。 そんな裏会にとって烏森は格好の餌食になる。だから、正守は姉を守る為に裏会に夜行という集団を作った。
今回も夜行以外の裏会の人間には烏森に立ち入られないつもりである。
けれど、夜行も所詮裏会の一部。
直接、烏森にちょっかいを出してきた妖集団から烏森を夜行だけで守ることはできるはずもなく、また雪村家、墨村家がそれを許さないだろうと正守は仕方がなく帰省することになったのだ。

そして夜遅く、烏森の上空から下をのぞき見る。
そこには20歳になりずいぶんと女らしくなった姉が居た。
母に憧れて伸ばしていたはずの長かった髪は何故かばっさりと短くなっていて、残念に思うがその代わり姉の動きは髪の毛が無くなった分軽やかになっている気がする。
雪村家の正統は結界の精度、コントロールが得意で妖を退治する時も無駄な動きを必要としない為か長い髪のままだが、コントロールが不得手で大まかな、けれども絶大な力を持つ結界を使う姉は髪の毛が邪魔だったのだろうと正守は思った。
そんな姉がたかが硬い甲羅を持つだけの妖に苦戦しているのを見て、正守は苦笑した。
相変わらず頭を使う戦い方は苦手のようだと。

正守は実家を離れてから使えるようになった鯉の分身と五重の結界を使い、その妖を滅する。
そして、姉の前に三年ぶりに姿を現した。

「相変わらず、無駄な動きが多いね、姉さん。三年前から進歩していないんじゃない?」









このとき正守は気付いていなかった。
三年前、己が灯した良守の胸の内の火が炎となって燃え上がり始めていたことを。

正守も、そして良守もまだ気付いていなかった。

















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ちょいと年齢層が上がってしまいました…。
あ、利守君は良守−7歳くらいだと思います(多分)。

08/01/30

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