神の檻














「で、俺は何をすればいい?」
「いや、兄貴は別に…いらないんだけど」

久しぶりの休みで、兄貴が戻ってきて。
ちょうど俺は林檎のカントリーケーキを作る予定で。
そう言ったら、兄貴は手伝うと言い出した。
兄貴は父さんから地味なエプロンを借りて俺の横に立つ。
ああ、似合わない。
だって、地味と言ってもエプロンだ。
着物坊主がそんなもの似合うわけがない。
面白すぎてうんざりしそうだ。

「せっかくだし、何かさせてよ」
「あー…できんの?」
「多分ね」

兄貴がケーキを作っているトコロなんて見たことがない。
見たくもない。
不安になりつつ、包丁と林檎を兄貴に渡した。

「皮向いて、大きめの薄切りにして」
「わかった」

不安なので他のものを準備している間、ちらちらと兄貴を見る。
綺麗に林檎の皮を剥いていた。
これなら安心か、と思って卵を卵黄と卵白に分けて卵白から泡立てる。
一回作業に入ると、集中するから兄貴のことを忘れかけていたとき。
兄貴が俺を呼んだ。
終わったのかな、と思って兄貴の方を見ると。

「指切ったんだけど」
「え、お、ちょっ」

兄貴の右手の人差し指から血がしたたり落ちていた。
どんくらい深く切ったんだっと思って慌てて側にあった綺麗な布巾で抑える。
兄貴は落ち着いていて、怪我をしてない俺の方が慌てていた。

「痛くねぇのかよ」
「痛いよ、そりゃ」
「じゃあ痛がれよ」

傷口が痛くないように、そっと布巾を外すとまだ血は止まっていないけど、
深くは切れてないようだった。
これなら大丈夫だ、とホッと息を吐く。

「絆創膏、持ってくるから待ってろ」
「いいよ。舐めたら治る」
「いや、治らないし。あと、ケーキに血とか消毒液の匂いとか混ざったら
嫌だからもうお前なにもするなよ」
「えー」
「えー、じゃねぇ」
「じゃあ、絆創膏しなくていいから舐めてよ」
「………はっ!?」

兄貴が嫌な顔でにやりと、笑った。
思わず俺は後ずさって、直ぐに兄貴に背を向けて逃げようとする。
けれど、結界が張られた。
くそっ素早い。

「ね、舐めて」

後ろから軽く抱きしめられ、藻掻いた俺の顎を兄貴の左手が固定する。

「大丈夫、俺、病気とか持ってないから」

兄貴が俺の耳元に、内緒話をするようなかんじで言う。
そういう問題じゃない。
いや、大事な問題かも知れないけど、今はそんなことどーでもいいっ。

「い、嫌だっ」
「また血が出てきた」

きちんと止血をしていないからか、血が滲んでいる指を兄貴が俺の目の前に持ってくる。
鉄くさい、嫌な匂いがした。
顔を顰めると、兄貴が俺の横でクッと笑う。
血が付いた指は、俺の唇をなぞり、血をなすりつけた。
濡れた感触に、背筋が震える。

「良守」
「いやだ…」

そう言った俺の唇の隙間から、兄貴の指がす、と入ってきた。
触れたら血がつきそうで、つい口を少しだけ大きく開けてしまう。
けれど、それは舌に当たる前に直ぐに止まる。

「舐めて」

兄貴は、俺が自発的に舐めるまで待つつもりらしい。
嫌だけど、舐めるまで終わらないということを理解して、指に舌を這わせた。
嫌な味が口内に広がる。
自分の血の味には慣れたけど、兄貴の血を舐めたのは初めてで。
兄貴の血は、俺と同じ味がするはずだろうに、もっと濃くて鉄くさい気がした。

「ほら、もっと舌を絡ませて」

一瞬躊躇って、言われたとおりに指に舌を絡ませた。
すると、血がまた出てきたらしく、口内の血の味が濃くなった。
痛くないのだろうか、兄貴は。
後ろに兄貴がいる所為で表情は見えないし、うめき声とかも聞こえない。
暫くそうしていると、兄貴の指が動き始めた。

「んっ…」
「おいしい?」

んなわけ、ねぇだろと思いつつも指が邪魔で声に出せない。
いつの間にか二本に増えていた指が、俺の口の中を思うまま動いて苦しい。
血の味が口の中に広がって、恐くて唾液が飲み込めなくなる。
その唾液が口から溢れ出て、顎を伝って気持ちが悪い。
兄貴が指を掻き回す口の中から、水音が聞こえて吐き気がする。
無意識に兄貴の腕に縋り付くと、顎を固定していた左手が外された。
首を横に向けて、兄貴の顔を見る。
兄貴は少し、指の動きを緩めた。

「あに、きっ」
「なに?」
「も、やだっ…」
「ふーん」

ふーんじゃねぇっと怒鳴りたかったけど、兄貴が顎を舐めてびくっと身体がすくむ。
顎を伝っていた唾液を舐めたようだった。

「駄目じゃないか、ちゃんと飲まないと」

俺の血を、と兄貴が耳元でまた呟く。
そして、俺の顎を上に向けてまた固定した。
口の中の沢山の唾液が、喉に流れ込んで思わず飲み込んでしまう。
強制的に飲まされたので、少し咳き込んだところを兄貴の指が俺の口から抜けていった。
蛍光灯が、透明な糸に反射したのが視界に入って目を瞑る。

兄貴の、血を飲んでしまった。
きっと、兄貴の血は俺の中で吸収されて、俺になるのだ。
その事実に、頭がくらくらする。
恐いのか、嫌なのか、もうよくわからない。

「よくできました」
「っざけんなよ…」

涙目になりつつ、兄貴の腕を払うとくるりと身体を回転させられ、兄貴と向き合う形になった。
兄貴はにやにやした笑みを浮かべつつ、さらに俺を抱き上げ、ダイニングテーブルに座らせた。

「ちょ、」
「続き、しようか」
「え、」

続きって、続きって、と軽く混乱していると兄貴の顔が降りてきて俺に軽いキスをする。
それからテーブルの上に押し倒されそうになって、兄貴の肩越しに切りかけの林檎が目に入った。

林檎。
続きが、終わる頃には茶色くなっているだろう。
せっかく、林檎ケーキに向いている新鮮な紅玉を買って貰ったのに。
買ってすぐじゃないと、かすかすになって不味くなるのに。

林檎っ!

「……お前ね」

咄嗟に、俺は兄貴と俺との間に薄い結界を張った。
それに兄貴は呆れたようだけれど。

「林檎、ダメになったら二度とケーキ作ってやらないからなっ」
「買ってやるよ?」
「食べ物は粗末にしたらいけないって父さんに言われなかったのか?」
「……言われたカモね」

一応俺の作るケーキを気に入っているらしい兄貴は、わかったと呟いて俺から離れた。
父さん、ありがとう。欠片でも兄貴に常識を教えてくれて。
机を降りて、顎の唾液を拭いて、もう一度手を洗い直して、林檎を手に取る。
切りかけの林檎を最後まで切り終えて、ラム酒につけて一安心して後ろを振り向いて兄貴を見る。
兄貴はつまらなさそうな顔をしていた。
けれど、もう手伝わせる気はなくなっていた。

「兄貴はもう何もしなくていいから」
「ふーん」
「でも手は洗え。絆創膏しろ」
「はいはい」

兄貴がキッチンから出て行くのを確認して、俺は再び作業に集中した。
林檎を一欠片だけ食って、兄貴の血の味を消してから。






焼き終えて、出来具合に満足して。
兄貴と俺の分を切り分ける。
残りは利守と父さんと、ジジィも食べるだろうから棚に入れる。
本当は焼きたてを食べた方が、俺は好きだけどいないからしかたがない。

「バニラアイス、つけるか?」
「いや、いらないよ」

焼きたてだし、と兄貴が呟く。
焼きたてだから、つけたほうがおいしいんだけど。
まぁいっか、と思って自分の分だけアイスを乗せた。

兄貴が入れてくれたコーヒー牛乳を飲みながら二人で黙ってケーキを食べる。
うん、良い具合に焼けたな。
兄貴をちらっとみると、わかりにくいけど満足そうな顔をしていた。
よかった、うまいみたいだなと思った時、兄貴と目が合う。

「うまいよ」
「……ふーん」
「今度はアップルパイ食べたいな」
「…わかった」

兄貴に褒められることに慣れてないから、下を向いてケーキを食べる。
再び沈黙が降り続け、俺がケーキを食べ終わった頃には兄貴も食べ終わり、
コーヒーを飲んでいた。

「良守」

兄貴のコーヒーカップがことり、と音を立ててテーブルへ戻る。
兄貴の顔も、満足から怪しい笑みに戻っていた。
ああ、なんでこういうことばっかり分かりやすいんだ、こいつは。

「な、なんだよ」
「林檎を食べたアダムとイブはどうなった?」
「は?」

思っていたことと違うことを言われ、思わず俺は兄貴を凝視する。
アダムと、イブって。

「聖書?」
「そう。知ってるか?」
「え、と…よく知らない」
「追放されるんだよ。神の檻から」
「神の、檻?楽園じゃねぇの?」

聖書とかには詳しくなかったけれど、記憶の片隅、どこかで聞いた話では。
アダムとイブがいるのはエデンとか…なんとかじゃなかったっけ?

「園っていうのはね、周りを囲んだ庭とか畑のこと。つまり、目の届く檻だよ」
「じゃ、なんで目が届かない檻の外に追放されたんだよ」
「汚されたから。神が大事にしていたアダムは、イブと蛇によって汚された。
だから要らなくなった」

そう説明すると、兄貴は席を立って俺の横に立つ。
俺には難しくて、話の半分も理解できない。
いや、正確には兄貴の意図が理解できなかった。
困った顔をして兄貴を見上げた俺の頬を、兄貴が両の掌で包む。

「聖書にはね、アダムとイブが食べた果実が林檎なんて書いてない。ならなんで、
林檎と言われてると思う?」
「…知らねぇ」
「生の林檎はさ、血の味と似てるだろ?甘くて、でもどこか鉄くさい」
「………そう、かな」
「そうなんだよ」

ほら、と兄貴が俺の唇に絆創膏を貼った手を充てる。
絆創膏には、血が滲んでいた。
鉄くさい、血の臭いと絆創膏についた消毒液の匂いがした。
林檎の甘さなんて、ない気がした。

「また、作ってよ。アップルパイでもタルトでも。焼き林檎でもいいよ」

そう言いながら、兄貴はキッチンに結界を張ってドアを固定する。
兄貴の血を消す為に食べた林檎の味を思い出そうとしても、鉄くささしか思い出せなくなる。
そうなると、兄貴の言う通りかも知れないと思ってしまう。

「良守」

だったら、兄貴が何を望んでいるのかなんて問うまでもない。
俺は兄貴の手を掴むと、口で絆創膏を引きちぎり、まだあまり乾いていない傷口を舐める。
そこから溢れた血は、なぜだか今度は甘い気がした。
一頻り指を舐め終えると、血の味が広がったままの口で兄貴にキスをする。


林檎ジャムでも手みやげに作ってやろうかと、思いながら。


















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本当はギャグだったのに。良守が汚した兄の手を舐めたえろーっていうギャグだったのに。
兄が暴走するっ何故に兄は暴走してくださるのかしら。

ってか、この兄は白で大丈夫ですか?大丈夫かなぁ…。
まぁ、怪我してるのは兄だしそんな酷いこともしてないし、白で許してください。
黒はもっと黒じゃないと十字架の下にはおけない気がするので…。

あ、補足です。
アダムとイブと林檎の解釈は勝手に遠夜が考えたものです。
そんな文献は探しても出てきません。
ミッションスクールだったので知識だけはあるんですが、あるとどうしても使いたくなると言うか…。。

宗教批判じゃなく、文学というかホモのネタ材料というか…ほら、キリスト教ってホモダメだから。
そういう感じで使っているのですが、ご気分を害された方がいらっしゃいましたらすみません。


07/05/28

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