左頬の傷
烈火は、何か違和感―正確に言うなら気持ち悪さを感じて目を覚ました。
闇の中、誰かが自分に乗りかかっている。
その誰かと言っても、ここは紅麗の部屋だから紅麗以外にはいないのだけれど。
闇の所為で、烈火には紅麗の表情が見えなかったから、名前を呼ぶ。
しかし、それに返事はなかった。
寝ぼけた頭でも、なにか嫌な気がする。
「紅麗?」
再度呼びかけると、紅麗の手が烈火の右頬に添えられた。
その手は紅麗にしては温かくて、紅麗も起きたばかりだと言うことを告げている。
嫌な予感が強まり、烈火はベッドに備え付けてあるライトをつけた。
すると、紅麗に光が反射して、一瞬眩しさに目を瞑ってしまう。
目が慣れた頃に、烈火が瞼をあけると、そこに紅麗の無表情な顔があった。
眠たそうに開かれた目の中にある、瞳孔が細くなっていた。
烈火の額に汗が一筋流れ落ちる。
「紅麗っ」
呼びかけにも、紅麗は反応せずに、ただ烈火を見下ろしていた。
烈火は確信する。
紅麗が、寝ぼけて最初に出会った頃の紅麗に戻っている。
昔の紅麗に戻っているからといって、酷いことをされるわけではない。
ただ、何を言い出すのかわからない状態なのだ。
以前、縛りたいと言い出したとき、烈火はどうしようかと思った。
正気に戻った紅麗は、そこのとを忘れているのか、どうでもよくなったのか分からないが、
縛るなどと口にはしない。
だから余計に、こうなってしまったときの紅麗を止める術を知らない烈火は焦るし困ってしまう。
困る烈火を余所に、紅麗はただ黙って烈火の右頬を撫でていた。
あまりに長い時間のそれに、烈火が身を捩る。
なんだか、さすられすぎて痛くなってきそうな気がしたのだ。
すると、紅麗は手を止めて、反対の左頬に軽く口付けた。
こういう、軽い触れ合いを好むのは、普段と同じらしい。
それに烈火は少しだけ安堵した。
このまま、眠ってくれればいいのになと。
けれど、紅麗は口付けをやめようとせず、それどころか頬を舐め始めたから烈火は焦る。
慌てて、紅麗をどけようとすると、両手首を紅麗の両手で押さえつけられた。
烈火は、本格的に焦ってくる。
「紅麗、紅麗、なぁってば」
声を掛けても紅麗は止まらない。
ぬるっとした感触が頬を滑り、一瞬熱くなるけれど直ぐに空気に触れて冷たくなる。
紅麗の舌は頬から耳へ、耳から首筋へと一旦降りてから烈火の唇に到達した。
「んっ」
軽く咥内を掻き回されるだけで、烈火の身体に熱が堪っていく。
正気ではない紅麗に、こんなことをされるのは初めてで、烈火の焦りに混乱が加わり始めた。
いつもなら、正気ではない紅麗とは距離を置くからだ。
けれど、今は逃げられない。
「…はっぁ…」
執拗に舌をなぶられていると、息が上がってくる。
目を開けたら視界に入ってくる紅麗は、至近距離過ぎて表情がわからない。
でも、正気じゃなかろうと、これは紅麗だから。
そう思い直して、烈火が身を任せる為に身体の力を抜いたとき。
紅麗が、再び左頬に唇を移した。
「?」
紅麗は間違いなく頬を舐めている。
けれど、その感触はただ温かい何かが押し付けられているだけで、紅麗の舌と自分の頬の
間に何かを挟んでいるようだった。
ぼんやりしかけた頭で、烈火はそこに何があったかを考える。
----ああ、そうだ絆創膏。
紅麗につけられたという、切り傷を隠す為の絆創膏。
幼すぎて覚えていないけれど、紅麗が傷つけたと言った。
そのことを知るまでは、覚えていない顔の傷の理由を聞かれるのが嫌で隠していた。
そのことを知ってからは、隠さないといけない気がしていた。
だって、これは紅麗と烈火の確執を表している。
それを思い出した途端、烈火は急に恐くなる。
今、目の前にいるのは紅麗だけれど、紅麗だけれど。
俺を憎んでいる紅麗かもしれない、と恐くなった。
紅麗を引きはがそうと、再び両手に力を込めても、体制的に不利ということもあってか紅麗
はびくともしない。
ただ、好き勝手に頬の絆創膏の上を舐めて、偶に歯を立てている。
焦りよりも混乱が強くなっていって、烈火がぐっと目を瞑った時、烈火の頬に何か擦れたような
衝撃が走る。
え、と思わず烈火が目を開けると、紅麗が口に絆創膏をくわえたまま、烈火を見下ろしていた。
絆創膏を剥がされた事実と、自分を見下ろす紅麗の瞳孔が細いままになっていることに、
烈火の背筋が震える。
それに構わず、紅麗は加えていた絆創膏を音を立て吐き出し、再び烈火の頬を舐め始める。
古くても傷跡の部分は、他の皮膚より薄くなっていてその分感覚も敏感になっていた。
まるで、咥内を舐められたかのようで先程とは違う意味で烈火の背が揺れる。
烈火には紅麗が何をしたいのかが、見当もつかない。
なんで、こんなことを。
寝ぼけていて、意識がないのなら。
普段隠していた、これが紅麗の望みなら。
なにを一体意味しているのだろうか。
もう一度だけ、烈火が紅麗の名を掠れた声で呼ぶ。
すると、紅麗の動きが止まり、両手首を拘束していた手が、烈火の掌に重なった。
それに思わず烈火が、ぎゅっと握り返すと、頬を舐めていた紅麗の動きが止まる。
手が解かれ、自分から離れた紅麗にどうしたのだろうか、と思って烈火が見ると、
紅麗が再び自分に覆い被さる。
一度だけ、軽く口付けられたと思ったら、烈火にかかる紅麗の体重が急に重くなった。
「お、重いっ紅麗っ」
自分の肩口に埋められた紅麗の頭を揺するが、紅麗は動かない。
仕方がないから、烈火は紅麗の身体をできるだけ丁寧に自分の上からどかして、隣にやる。
起きあがって紅麗の顔を見ると、紅麗は。
「寝てる…?」
いつものような、穏やかな顔をして眠っていた。
烈火は思わず脱力する。
何が切っ掛けでこうなったのか、どうして糸が切れたかのように眠りだしたのか。
烈火には全く分からない。
それでも紅麗が眠ってくれたことに、安堵して。
頬を袖で拭いながら、紅麗の横に寝そべる。
すると、元々眠っていた所を起こされたからか、直ぐに眠気が襲ってきた。
明日このことを紅麗は覚えているだろうか、とか。
聞いてもいいことなのだろうか、とか。
そういえば紅麗に対しての恐怖はなかった。
むしろ、なにか穏やかなものを感じていたかもしれない、と少しだけ考えたけれど、
眠気には勝てず、烈火は意識を手放した。
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この後に二、三個挟んでから、好きなシーンで創作30題「---越しに触れる」に続きます。
07/06/25
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