椿油
「もう、隊長ではないよ」
目の前に表れるはずのないものがいて、恋次はほうけたが、その言葉に我に返る。
無意識に腰に手を遣るが、義骸の姿なので蛇尾丸は当然そこにはない。
そもそも、今、一人で戦闘して勝てるわけがない。
恋次が緊張に脂汗を流しているのとは正反対に、藍染は飄々としていた。
以前の、それが全てだと思っていた人の良さを纏いながら。
「久しぶり」
「…」
「おいで」
何を、と恋次が思った瞬間。
藍染は白い布を宙に舞わせる。
しまった、と恋次が思うよりも早く、二人は白い布に包まれた。
瞬間後に、恋次の周りにあったものは無だった。
「ここは…」
「秘密だよ」
何もなかった。
周りはなにもない空間で、藍染と恋次自身の姿だけが不思議とくっきりと浮かんでいた。
微かに何かが鼻孔をくすぐる。
それは、藍染の部屋に焚かれていた香に似ていた。
けれど、少し違うような気もした。
思考が鈍くなるような気になる。
しかし、恋次はそれが何もない空間の所為か、香りの所為なのか判断できない。
藍染が、一歩恋次に近付く。
それに気付いた恋次は、二歩後ずさりした。
「戻れなくなるよ」
「…」
「私から離れると」
確かに、ここがどこでどのような場所かが分からない恋次には、自分で現世に戻る術はない。
しかし、藍染の側にいて戻れる可能性もゼロに近いのではないだろうか、と恋次は思う。
「なんで…」
「逢いたかったから」
「っ」
「ねぇ、恋次」
呼びかけると、藍染は再び恋次に近付く。
今度はゆっくりと、しかし歩みを止めることはなく。
恋次が遠ざかろうとしたことに気づき、霊圧で恋次を圧迫した。
途端、恋次はその霊圧に押しつぶされるように、地面にへたれこんでしまう。
今更ながらに、霊圧の差に驚かされる。
この人がその気になれば、自分は簡単に殺されるのだという事実が、改めて霊圧と共にのし掛かる。
藍染の右手が、恋次の頭の上に翳される。
恋次はそれから目を離さなかった。
目を瞑れば、殺されるかもいれないという恐怖ではない。
ただ、藍染を見ること以外出来なかったのだ。
「髪が随分痛んだね」
藍染は、すっと恋次の髪を結っていた紐を解く。
痛んだ髪は、それでも重力に素直にしたがった。
その髪を藍染が一房手に取り、口元に寄せる。
以前と同じように、慈しんで。
「椿油は切れたのかい?それとも現世に持ってくるのを忘れた?」
「あ…」
何故、と恋次は思う。
以前の、作りものの藍染で言わないで欲しいとも思う。
それと同時に、逢いたかった、触れたかったという欲求も抑えきれないくらい膨らんだ。
「…浦原喜助が触れたね?私の恋次の髪なのに」
以前のような、愛をくれていた頃のような藍染の言葉と。
相変わらず重くのし掛かる霊圧に、
何処で見ていたのだろう、という疑問は一瞬浮かんで消えた。
それよりも、目の前にいるのは、誰だろうということのほうが大事だった。
誰であるべきなのだろうか、自分にとって。
そして、藍染は恋次に何を望んでいるのだろう。
なにも理解することは出来ないまま、恋次は掠れたような声で藍染の名を呼んだ。
「なんだい?」
「…あい、ぜん…さん…?」
「そうだよ。恋次」
藍染が恋次にかけた霊圧を緩めた。
それを感じて、恋次がゆっくりと起きあがる。
恋次が膝を立てた時、藍染が恋次の脇に手を入れて立つのを手助けした。
「あ…」
「大丈夫かい?」
その言葉の持つ響きは、尸魂界にいた頃に与えられたものと同じだと恋次は感じる。
しかし。
藍染の見たこともない服を掴んだ。
この服が、邪魔をする。
嫌でも、藍染が恋次の知っている死神ではないことを示している。
「ああ、この服が嫌いかい?」
ここにきて初めて恋次は藍染から目をそらした。
やはり、違う。
尸魂界にいた藍染はどこにもいないのだと知っていたはずなのに。
そう思うが、恋次には藍染から手を放すことが出来ない。
「おいで」
「え?」
藍染は、恋次に服を掴ませたまま、恋次を抱きしめた。
そして、そっと髪を撫でる。
藍染の匂いがした。
「おいで?私のところに」
「なにを…」
「苦しいだろう?私がいないと息も出来ないくらい苦しいだろう?」
「……そんなこと…」
「本当に?」
抱きしめられた為、藍染の声が恋次の耳に直に入ってくる。
そしてまた、錯覚する。
これが、本当の藍染ではないだろうかと。
ならば、自分はどうすれないいのだろうかと。
手を取りたい自分は。
藍染の服を握りしめたまま、恋次が動けないでいると、藍染はクスリと笑った。
「恋次…」
「っ…」
藍染は自分よりも背の高い恋次の頬をさする。
そして、そっと口付ける。
恋次は一瞬躊躇って、僅かに唇を開けて目を瞑った。
すると、藍染の舌が迷うことなく恋次の咥内に侵入する。
「ぅんっ」
しつこく、恋次の舌の裏側や歯の奥を、藍染の舌はねぶった。
喉の奥にまで侵入しようとされて、恋次は膝の力が抜ける。
少しずつ藍染は恋次にのし掛かるように口付けは続いていった。
「っは」
藍染の唇が離れた時、恋次は脱力して膝をついて藍染に支えられていた。
口の端から零れていた唾液を舐め取られ、背筋が震える。
気持ちよさに、恋次は藍染の首に腕を回した。
「藍染、さん…」
恋次の呼びかけに、藍染が恋次の背を強く抱きしめることで返す。
「藍染さん」
「うん」
「藍染さん」
「恋次」
耳元で名前を呼ばれて、恋次の身体が震える。
「藍染さん、俺…」
「大丈夫、何も考えないでいい」
しかし、藍染のその言葉に恋次は我に返った。
自分が思考を止めていたことを、思い出す。
いや、藍染に止められていたのだ。
そして、藍染の声とは別に、恋次の頭で更木剣八の声が頭に響く。
実際には、過去に言われたことだった。
『真実と事実は違う。自分が信じたものが真実だ。テメェが見極めたモノが真実だ』
そう言って、市丸を斬ると言った剣八の声を。
「しんじつ…」
「なんだい?」
「あなたは…誰ですか…?」
「おかしなことを言うね。君の全身が私を知っているだろう?」
「俺の知る藍染さんは、最初からいない…存在しない…?俺はどうして、あなたの側にいた?」
「…恋次、」
「どうして、あなたは、俺を…」
「駄目だよ、もう考えるのはやめなさい」
「どうして、俺をここに連れてきたんですか?」
手放したクセに、そう叫んで恋次は藍染を突き飛ばす。
思いっきり恋次が力を込めたにも拘わらず、藍染は少ししか後ずさりしなかった。
むしろ、自分から離れたようだった。
「駄目だよ、恋次」
「……」
「だから、正気の君は連れてはいけない」
「正気…?」
「そう、狂わないと私の側にはいられないよ」
「……俺は、俺は…」
「…返してあげよう。今は…、君が狂うまで待つよ」
それが真実ですか、と恋次が聞こうとした時、あたりは白に包まれた。
あの、白い布を使った術を藍染が再び使ったのだと恋次は理解して。
そのまま、ゆっくりと意識を手放した。
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07/03/01
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